長崎原爆の当時の新聞報道

先日長崎へ旅行をした際に,原爆の博物館に行ってきました.とてもつらい内容の展示ばかりで,とても心が痛かったです.

 

今回のブログでは,長崎の原爆投下を当時の新聞はどのように伝えていたのかを調べてみました.

 

長崎原爆投下翌日の朝日新聞

f:id:saney_lalala:20200323210904j:image

長崎の原爆は8月9日午前11時2分に投下されました.この写真はその翌日,8月10日の朝日新聞一面です.

この日の一面トップの記事はソ連の日本への宣戦布告を伝える記事でした.

一面の下の方の記事には新型爆弾(原爆)に対しての記述はありますが,長崎への原爆投下についての記事ではありません.この記事では,広島への原爆投下を受けて防空総本部が発表した原爆の対策が伝えられています.

 

屋外防空壕に入れ 新型爆弾に勝つ途(『朝日新聞』1994.08.10 日刊 1面)

この記事では新型爆弾(原爆)に対してどのような行動をとれば助かるかを伝えています.

敵が人道を無視して使用した新型爆弾に対し,防空総本部では九日対策として左のごとき心得を発表した.

一,新型爆弾に対して待避壕は極めて有効であるからこれを信用して出来るだけ頑丈に整備し利用すること

二,軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない.防空頭巾および手袋を着用してをれば手や足を完全に火傷から保護することができる.

三,前述の待避壕を突差の場合に使用し得ない場合は地面に伏せるか堅牢建築物の陰を利用すること

四,絶対に屋内の防空壕を避けて屋外の防空壕に入ること

八日発表した心得のほか以上のことを実施すれば新型爆弾もさほど恐れることはない.なお,新型爆弾に対する対策は次々に発表する

このころの記事では日本本土への空襲を伝える記事が多く見られます.また,広島への原爆後はその残虐さに対して抗議をする記事も多く見られます.

 

 

長崎原爆投下を伝える新聞

それでは,長崎への原爆投下を伝えたのはいつだったのでしょうか?

 

それは,原爆投下から3日後の8月12日でした.この記事は写真で見るとわかる通り,1面のかなり小さな記事として発表されました.写真もないたったの7行の記事でした.

f:id:saney_lalala:20200323210945j:image

長崎にも新型爆弾(『朝日新聞』1945.08.12 日刊 1面)

西部軍管轄司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)

一,八月九日午前十一時頃的大型二機は長崎市に侵入し,新型爆弾らしきものを使用せり

二,詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込

大本営が長崎の原爆について報道をしてほしくなかったということがひしひしと伝わってきます.被害が比較的僅少なんてどの口が言えるんだ!って感じですね.

同日には広島の原爆の被害は大きいがそれに屈しないこと,その残虐さを許してはいけないことなどが報道されています.

f:id:saney_lalala:20200323211039j:image

 

戦後直後の新聞記事から

終戦後,広島・長崎の原爆は写真付きで報道されることになります.しかし,その報道は小さなものでした.

 

惨禍の広島市 原子爆弾投下により瞬時に焦土と化し煙突一本を残すのみとなった市街の一部(『朝日新聞』1945.08.19 日刊 1面)

f:id:saney_lalala:20200323211456j:image

原子爆弾 爆風で線路外に吹飛ばされた貨車 広島市(『朝日新聞』1945.08.20 日刊 2面)

f:id:saney_lalala:20200323211722j:image

原子爆弾攻撃による長崎市の惨状(『朝日新聞』1945.08.25 日刊 2面)

f:id:saney_lalala:20200323211734j:image

 

まとめ

戦争中の新聞報道は大本営発表をそのまま垂れ流していたという批判よよく耳にしますが、確かにそうだったのかなと思います。この件については他紙との比較で見えてきそうなのでいつか調べてみたいです。

メディアが左寄りだ、右寄りだという批判をよく聞きますが、左も右もあるのはいい事ですね。