テレワークで買って良かったもの

テレワークが始まって早1ヶ月、何も無い状態から始まったテレワーク期間中に買って良かったものをシェアします!

 

買って良かったのは、次の4つです。

  1. 広くてシンプルな机
  2. 椅子
  3. モニターと机上台
  4. マウス

全体的にそれほど高くは無いので、是非チェックしてみて下さい!

 

広くてシンプルな机

そもそも机がなかったので、広くてシンプルな物を購入。天板が広いと多くのものを広げることができるのでとても良いです。

今はテーブル上にモニター、モニター台、キーボード、ラップトップ、マウス、充電ケーブルを配置しても広々使えます。

 

 

椅子

椅子が悪いと身体中痛くなり生産性は終わります。そこで、手ごろな椅子として僕が買った椅子をお薦めします!

この椅子といいところは大きく2つあります。1つ目はリクライニングが深くていいです。仕事の合間で背伸びできて最高です。2つ目は肘おきの高さが変えられるところです。僕は仕事の時は高くして休む時は比較して使用しています。

ただ、首休めが少し前に出ているのが少し気になっています。

 

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モニターと机上台

ラップトップでの作業は姿勢がどうしても悪くなってしまいます。

そこで、モニターとモニター台を買いました!

モニターがちょうど目線を真っ直ぐにして作業ができる位置になり、体が痛くなることがなくなりました。

 

このモニター台は高さ調節ができるのでおすすめです。モニター台の下に物を置けるので以前より机の上もスッキリしました!

 

 

マウス

このマウスは手にフィットするので愛用しています!

機能的には親指部分に戻るボタンがあるだけですが、正直これで十分だと思います。

とにかくはフィット感がいいです。手が大きい人におすすめかも。

 

 



 

英語学習ツールのトーキングマラソン使ってみたけど…

今回は英語学習用のアプリであるトーキングマラソンを使ってみたので、その感想をシェアします。

 

僕の英語力はTOEIC800点台、TOEFL90点台です。

 

よかった点

使ってみていいなと思ったのは、正しいフレーズと発音がわかる点です。一つ一つのレッスンが短いのも嬉しいです。

例えば、トランプをしよう、を英語で言うと

Let's play cards!

なのですが、僕は

Let's play card!

だと勘違いしていました。このような些細な間違いを正確に教えてくれる点が嬉しかったです。

 

また、音声認識の精度が高くて早い点もとても良いと思いました。

 

微妙な点

微妙な点は答えが決まっている点です。違う言い回しでも良さそうなものを言ってもいわゆる正解と合致していなければ間違いとなってしまうのが残念でした。

また、会話形式のトレーニングを練習するもののようでTOEFLやIELTSの練習に直接なるかと言えば微妙だと思います。英語での会話にまだ慣れていない人にはいいと思います。

 

結構続けるか?

試してみた結果、自分は使わないです。

理由としては、内容が簡単な点と、続かないかなと感じた点の2つがあります。

僕は英語での日常会話については何とかなっているレベルなので、少し物足りなさを感じました。

また、話す必要があり、使える場所が限られるのでなかなか続けるのは難しいなと思いました。

 

2週間無料で使えるので、気になった方は是非試してみて下さい!

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長崎原爆の当時の新聞報道

先日長崎へ旅行をした際に,原爆の博物館に行ってきました.とてもつらい内容の展示ばかりで,とても心が痛かったです.

 

今回のブログでは,長崎の原爆投下を当時の新聞はどのように伝えていたのかを調べてみました.

 

長崎原爆投下翌日の朝日新聞

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長崎の原爆は8月9日午前11時2分に投下されました.この写真はその翌日,8月10日の朝日新聞一面です.

この日の一面トップの記事はソ連の日本への宣戦布告を伝える記事でした.

一面の下の方の記事には新型爆弾(原爆)に対しての記述はありますが,長崎への原爆投下についての記事ではありません.この記事では,広島への原爆投下を受けて防空総本部が発表した原爆の対策が伝えられています.

 

屋外防空壕に入れ 新型爆弾に勝つ途(『朝日新聞』1994.08.10 日刊 1面)

この記事では新型爆弾(原爆)に対してどのような行動をとれば助かるかを伝えています.

敵が人道を無視して使用した新型爆弾に対し,防空総本部では九日対策として左のごとき心得を発表した.

一,新型爆弾に対して待避壕は極めて有効であるからこれを信用して出来るだけ頑丈に整備し利用すること

二,軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない.防空頭巾および手袋を着用してをれば手や足を完全に火傷から保護することができる.

三,前述の待避壕を突差の場合に使用し得ない場合は地面に伏せるか堅牢建築物の陰を利用すること

四,絶対に屋内の防空壕を避けて屋外の防空壕に入ること

八日発表した心得のほか以上のことを実施すれば新型爆弾もさほど恐れることはない.なお,新型爆弾に対する対策は次々に発表する

このころの記事では日本本土への空襲を伝える記事が多く見られます.また,広島への原爆後はその残虐さに対して抗議をする記事も多く見られます.

 

 

長崎原爆投下を伝える新聞

それでは,長崎への原爆投下を伝えたのはいつだったのでしょうか?

 

それは,原爆投下から3日後の8月12日でした.この記事は写真で見るとわかる通り,1面のかなり小さな記事として発表されました.写真もないたったの7行の記事でした.

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長崎にも新型爆弾(『朝日新聞』1945.08.12 日刊 1面)

西部軍管轄司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)

一,八月九日午前十一時頃的大型二機は長崎市に侵入し,新型爆弾らしきものを使用せり

二,詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込

大本営が長崎の原爆について報道をしてほしくなかったということがひしひしと伝わってきます.被害が比較的僅少なんてどの口が言えるんだ!って感じですね.

同日には広島の原爆の被害は大きいがそれに屈しないこと,その残虐さを許してはいけないことなどが報道されています.

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戦後直後の新聞記事から

終戦後,広島・長崎の原爆は写真付きで報道されることになります.しかし,その報道は小さなものでした.

 

惨禍の広島市 原子爆弾投下により瞬時に焦土と化し煙突一本を残すのみとなった市街の一部(『朝日新聞』1945.08.19 日刊 1面)

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原子爆弾 爆風で線路外に吹飛ばされた貨車 広島市(『朝日新聞』1945.08.20 日刊 2面)

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原子爆弾攻撃による長崎市の惨状(『朝日新聞』1945.08.25 日刊 2面)

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まとめ

戦争中の新聞報道は大本営発表をそのまま垂れ流していたという批判よよく耳にしますが、確かにそうだったのかなと思います。この件については他紙との比較で見えてきそうなのでいつか調べてみたいです。

メディアが左寄りだ、右寄りだという批判をよく聞きますが、左も右もあるのはいい事ですね。

Amazon primeで見れるカンボジアについてのドキュメンタリー作品を見て

最近はとにかくカンボジアについて調べている僕ですが,今回はAmazon primeで見られるドキュメンタリー作品である,『THE_VOYAGES_カンボジア_クメール・ルージュ一ノ瀬泰造』という作品を見たので紹介したいと思います.

 

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この作品名にある一ノ瀬泰造さんは写真家でした.彼はカンボジアが内戦をしていた1972年にクメール・ルージュが占拠していたシェムリアップを訪れ,そこで消息を立ちます.その後,クメール・ルージュに捉えられ,殺されていたことがわかりました.

この作品は,現在のカンボジアクメール・ルージュ時代のカンボジア,そして一ノ瀬泰造さんのお墓の紹介という構成となっています.

一ノ瀬さんがクメール・ルージュが治めるシェムリアップでどのようなことを体験し,どのような写真をとっていたのかがとても気になります.

 

カンボジアへの旅行を考えている人,特にキリングフィールドやトュールスレンを訪れようとしている人には特におすすめです.

カンボジア ポル・ポト時代を描いたNetflixオリジナル作品を見て

ポル・ポト時代のカンボジアを舞台にしたNetflixオリジナル作品である、『FIRST THEY KILLED MY FATHER』がとても面白かったので紹介したいと思います。この作品は事実に基づいた物語になっています。

 

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あらすじ

この作品の主人公は、プノンペンに住む裕福な家庭で育った小学生くらいの少女です。描かれている時代はクメール・ルージュが政権を取る少し前から、その支配が終わるまでの間になっています。この政権下で、少女がどのような生活を送り、どのような事をさせられたのかを知ることができます。

本や博物館からでは知ることのできない雰囲気や生活の様子を映像として知るとこができるとても貴重な作品になっていると思います。

 

感じた事、思ったことなど

ここからはネタバレも含みます!

この作品はクメール・ルージュプノンペン入城の少し前から始まります。主人公である少女の父親は政府の役人であり、その家族はとても裕福な暮らしをしていました。内戦が続いていたカンボジアにおいて高価な時計や車の保有をしているなどからその様子が伺えます。しかし、この幸せな暮らしは4月17日を境に一変します。

 

クメール・ルージュの入城を、当時のプノンペン市民は歓迎しました。これは、何年も続いた内戦の終焉を市民が喜んでいたためです。ところが、入城の直後、市民は皆地方の田舎へと追い出されてしまいます。「3日すれば戻って来れる」と言われ、必要最低限の荷物を持って市民は移動をしました。このとき地方に強制移住させられた人たちを新人民と呼びます。主人公の家族も、自分たちの身分を隠しながら移住をしました。過去の身分がバレてしまったら殺されてしまうからです。

 

主人公家族ははじめ、田舎にいた親戚を頼って暮らしていたのですが、そこにも長くはいることができずキャンプでの集団生活をすることになります。この集団生活で印象的だったのは次の二つのシーンです。

一つ目は、父親がオンカーに連れて行かれるシーンです。それがどのような罪で連れて行かれたのかはわかりませんでしたが、実際当時の人々はそのように理由もわからず連行される人が多かったのだと思います。連れて行かれた後はありもしない罪の供述をさせられ、その後キリングフィールドで処刑をされたのでしょう。

二つ目は、病院のシーンです。当時医者は知識人であることから、多くが処刑されていました。そのため、病院では正当な治療を受けることができず、塩水やウサギの糞のような薬を与えられるだけでした。この作品でも、汚れたジュースの瓶から点滴をされている様子が描かれています。当時の「医者」は、4ヶ月ほどのトレーニングのみを受けただけで、子どもの「医者」も多くいたようです。また、病人にはあまり食べ物も与えられず、その結果「病院」へと送られることはほぼ死を意味していました。

 

その後、主人公とその幼い兄弟は別のキャンプへ移動します。さらにその後、主人公は移動部隊と呼ばれるような、ベトナムとの戦闘地域近くで作業する部隊へ移動となります。この移動部隊にいる間に地雷を埋める作業や戦闘訓練などをしているシーンがあります。この移動部隊には小学生ほどの子どもが多くいました。文章で読んで知っていても、映画のシーンとして実際に子どもたちが働いているのを見ると胸が痛みます。

 

本作品の最後では主人公とその兄弟はベトナム兵により保護されます。多くの家族を失いましたが、兄弟と再会することができたのがせめてもの救いだったのでは無いでしょうか。

 

おわりに

カンボジア旅行で、キリングフィールドやトゥールスレンに行く方はその前にぜひ見て欲しいです!現地での説明がすんなり入ってくるようになると思います。

 

 

東京大学の入学式中止は過去にあった?

令和2年3月18日に東京大学が令和2年度の入学式の中止を発表しました.

https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400133682.pdf

 

今回は過去にも東京大学の入学式が中止されていたことがあったという記事を発見したので紹介したいと思います.

 

東大.七年ぶりの入学式 父母合わせて六千人,武道館で(『朝日新聞』1975.04.12 夕刊 6面)

この記事では7年ぶりの東大の入学式が武道館で行われたことを伝えています.前回の入学式までは東大内の安田講堂で行われていたのですが,入学者数の増加に伴い初の学外入学式となったことを伝えています.

7年間の間入学式が行われていなかった理由は大学紛争だったようです.今では想像できないようなエネルギーを当時の学生は持っていたようですね.

 

カンボジア ポル・ポトについての当時の報道について1975年4月前半

カンボジアでの旅行を終えて,当時の日本はポル・ポト政権についてどのような報道をしていたのかが気になり調べてみました.

ポル・ポト率いるクメール・ルージュカンボジアの首都プノンペンへ入城した日が1975年4月17日なので,その前後の記事を調べることにしました.今回調べたのは1975年4月の朝日新聞です.

このころの紙面は多くがベトナム戦争に割かれています.そして,その巻き添えを食らっているカンボジアの国内の混乱についての記事も散見することができます.

見落としているものもあると思うのでコメントを頂けると嬉しいです.

 

1975/04/05

当時のカンボジアは政府と解放勢力の内戦が続いていました.朝日新聞ではこの日にプノンペン日本大使館への電話取材の記事を掲載しています.5日には隣のタイへの一時避難が決まっていました.

脱出直前のプノンペン栗野大使に聞く 敗残兵…あれる民心 生鮮品不足 頻発する強盗(『朝日新聞』1975.04.05 朝刊 7面)

記事では当時のプノンペンの市民の混乱した様子が語られています.また,記事からはロン・ノル政権の衰退,解放勢力の勢いの強さが読み取れます.

和平へ交渉を強調 カンボジアのロン・ボレ首相と会見 最終判断は国民に(『朝日新聞』1975.04.08 朝刊 7面)

当時のカンボジアのロン・ボレ首相がタイのバンコクで受けた会見についてまとめた記事です.この記事内で,解放勢力との和平を模索していること,タイに和平交渉の介入を求めていることなどが記載されています.

インドネシアとタイで解放勢力と接触 帰国のカンボジア首相明かす(『朝日新聞』1975.04.09 朝刊 7面)

 海外旅行中だったカンボジアのロン・ボレ首相がカンボジアに帰国したという記事です.この旅行中に解放勢力と接触していたことを明らかにしました.

プノンペン動き急 解放勢力が空港へ3キロ 政府側は緊急閣議(『朝日新聞』1975.04.11 朝刊 1面)

 解放勢力がプノンペンのポチェントン空港近くまで迫っていることを伝える記事です.解放勢力の射程圏内に空港が入ってしまい事実上空港の使用ができなくなっていることがわかります.

米,引き揚げ開始 プノンペン 海兵隊のヘリが出動 大使館閉鎖数百人,タイへ(『朝日新聞』1975.04.12 朝刊 1面)

アメリカが大使館員などを引き上げたことを伝える記事です.

これは米国がカンボジアを見捨てたことを意味している.

とのこと.同日カンボジアのコイ大統領代行などが脱出したことを伝える記事も掲載されています.

意外に早い?終戦処理 民族政府,復権へ 少ない敵味方のしこり カンボジア(『朝日新聞』1975.04.13 朝刊 7面)

「赤いクメール」に全権 シ殿下,北京で特別声明(『朝日新聞』1975.04.13 朝刊 7面)

解放軍が新政権を取ったのちにどのような混乱が起きるかを予測した記事です.当時の予測では,戦後処理での混乱はさほど大きくないのではとのこと.その後の歴史を知っている我々からするとかなり楽観的な記事となっています.シ殿下とは北京へ亡命していたシハヌーク殿下のことを表しています.

首都の商業を握る華僑たちはもともと極めて慎重な人たちである.(中略)中層以下の華僑は当面じっと息をひそめて解放勢力の出方をうかがうのではあるまいか.(中略)解放勢力としても,華僑の力を借りない限り今後の経済の正常な運営は不可能であろう.こうしてみると,解放勢力のプノンペン入城は意外に混乱が少なくてすむかもしれない.

 

ロン・ノル政権は確かに同大統領の「独裁政権」であったが,南ベトナムや韓国に比べると独裁の程度は非常にゆるかった.(中略)ロン・ノル政権は,腐敗はしていたにしても陰険な暗さがなかっただけに,解放勢力が入城しても敵味方の「恨み」による報復は意外に少なく終わるのではないかと思われる.

収拾へ軍が全権 カンボジア 政権立て直し図る 最高委議長にサカン氏(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

シハヌーク政権承認(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

当時のプノンペン市内の様子は"嵐の前の静けさ"と表現されています.アメリカの撤退により補給を絶たれたカンボジア政府軍と解放勢力との戦闘は停止していました.

カンボジア政府は十三日,米大使撤収後の混乱からの政権立て直しに取り掛かった.(中略)十二日成立した暫定最高委員会の議長にサカン参謀総長,副議長にロン・ボレ首相が就任,全権を握って国政の空白状態の収拾に着手した.だが,最高委員会は,解放勢力が「裏切り者」と決めつけたボレ首相や軍部の実力者をメンバーにしており,事態収拾の具体的方針は,はっきりしていない.一方シハヌーク殿下は,キュー・サムファン副首相兼国防相ら国内の解放勢力がプノンペン解放の主役であることを明らかにした.

当時のカンボジアには3つの大きな勢力がありました.1つ目の勢力はアメリカからの支援を受けていたロン・ノル政権です.記事に出てきている政府軍やロン・ボレ首相などもこの政権内の人々です.2つ目の勢力はロン・ノル政権にクーデターを起こされ,北京に亡命中のシハヌーク殿下率いる勢力です.先の記事ではフランス政府がシハヌーク政権を承認したことを伝えています.そして3番目の勢力がクメール・ルージュです.この2つ目の勢力であるシハヌーク殿下とクメールルージュが組んだのが解放勢力になります.

大国エゴむき出し 踏み台にされた民衆 米のカンボジア放棄(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

この記事ではカンボジアに混乱をもたらしたアメリカ政府への強い非難が掲載されています. 

米国は,在プノンペン大使館を閉鎖したことにより事実上カンボジアを見放した.「介入」から「放棄」まで,この五年間の「米国とカンボジア」関係ぐらい,大国のエゴと小国の悲惨さがむき出しになった例は,戦後史でもめずらしい.(中略)

七〇年五月,米,南ベトナム両軍は,カンボジア領内にある北ベトナム軍の”聖域”への侵略を開始した.「平和のための防衛行動」という旗印を掲げたこの作戦は,「目的のためにはあらゆる手段が正当化される」という”ニクソン哲学”の表れー言い換えると「ウォーターゲートの外交版」でもあった.「ベトナムにおける勝利」のため「カンボジアの平和」が踏み台にされたのである.(中略)

カンボジア人が求めて立ち上がった戦争でないことは,米軍部でさえ等しく認めるところで,ハーバード大ジェームズ・トムソン教授(国際関係論)などは「歴史にとどめるべきニクソンの犯した大罪のうち,最もひどいものは,クメール文化をでたらめに破壊したことである」と非難している.

記事全体は,今までひどかったアメリカの傀儡政権が崩れ落ち,これからはカンボジア人が求める新たな政府が誕生するんだというような雰囲気が読み取れます.

プノンペン進入カンボジア解放勢力の部隊(『朝日新聞』1975.04.14 夕刊 1面)

 解放勢力がプノンペン市内の西部地区に侵入したことを伝える記事です.記事には記者の状況が記載されており,緊迫感が伝わってきます.この記者が無事であったことを祈っています.

(この報道は本社プノンペン支局のトン・ジン記者=カンボジア人通信員=が伝えてきたもので,同記者は「この結果,これが私の最後の通信になろう.私は他の米国報道機関で働いている人たちのように撤退する手段がない」と付記している.)

プノンペン市内パニック状態 首都防衛線突破か 解放勢力空港一帯で猛攻(『朝日新聞』1975.04.15 朝刊 1面)

解放勢力がプノンペンへの前進をしており,各地で政府軍との戦闘が起こっていることを伝えています.この日はカンボジア正月であるが,プノンペン市民は外出を禁止されており,市内には人影がありませんでした.

カンボジア最高委議長中立の保証要請ASEAN加盟各国に(『朝日新聞』1975.04.15 朝刊 7面)

カンボジアの最高委議長がASEAN諸国にカンボジアの中立・独立・領土保全に対して保証を与えてほしいと要請したことを伝える記事です.また,タイには多くのカンボジアの難民が押し寄せていましたが,難民の長期滞在は認めないという記事も掲載されています.

解放勢力,激しい攻勢プノンペン拠点つぎつぎ攻略政府軍の支援機飛べず(『朝日新聞』1975.04.16 朝刊 7面)

解放勢力がプノンペン市内への進行を続けていることを伝えています.

解放勢力を迎えうつべき政府軍の士気は低く,国営放送を通じて政府軍に協力するよう呼びかけられている市民の関心もないに等しい状況である.

プノンペン政府関係者は,解放勢力がさしたる抵抗を受けぬまま進出していることに大いに驚いている.解放勢力は,政府軍側が発砲すると「なぜおたがいに殺し合うのか.われわれは同じカンボジア人じゃないか」と叫んで,政府軍側をけん制しているという.

また,14日以降プノンペンからの空路が完全に断たれてしまったことも伝えています.

プノンペンバンコクを繋いでいた唯一の民間航空線カンボジア航空は,一四日についで一五日もキャンセルとなり,プノンペンは空路による外部との接触を全く失った.同航空は一三日まで一日一,二便の割でプノンペンバンコクを往復し,カンボジア難民客を運んでいたが,十四日は機体の故障を理由に飛行を停止し,十五日はプノンペン郊外にあるポチェントン空港周辺の軍事情勢が極度に悪化したため停止したという.

微妙に揺れるシ殿下の胸中 元首へ意欲ー一転,引退説(『朝日新聞』1975.04.16 朝刊 7面)

シハヌーク殿下は十五日,一部の報道がカンボジア解放勢力の中で同殿下支持者とクメール・ルージュの対立があると伝えたことについて,「クメール・ルージュの指導者たち自身,私がカンボジア国家元首と統一戦線議長の地位にとどまることを認めている」との声明を発表”対立説”を否定した.

当時は解放勢力が国を治めることになった際にはシハヌーク殿下が国家元首になるということだったことが読み取れます.同日にはオーストラリアがカンボジア王国民族連合政府がプノンペンに移りしだい直ちに承認すると伝えた記事もあります.

プノンペン市内突入カンボジアの解放勢力(『朝日新聞』1975.04.16 夕刊 1面)

解放勢力がプノンペン市内の中心にあと4キロまで接近したことを伝える記事です.

 

1975/04/17

この日はポル・ポト率いる解放勢力のクメールルージュがプノンペンへ入城した日です.この日から都市部から農村への強制移動が始まりました.この日の朝日新聞朝刊の一面には次の記事が掲載されています.

プノンペン暫定最高委事実上の降伏提案「武装解き政権委譲」解放勢力今日にも無血入城(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 1面)

カンボジアの新政権 樹立後すぐ承認へ 政府方針(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 2面)

 日本政府がカンボジアの新政権が樹立されたらすぐに承認する意向を固めたことを伝える記事です.

放棄続く政府軍 プノンペン(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 7面)

政府軍の兵士たちがほとんど抵抗することなく解放勢力に投降していったことを伝えています.また,スウェーデンカンボジア王国民主連合政府を承認することを決定したことを伝える記事も見られました.

プノンペン,陥落 5年の内戦終結へ 政府すでに降伏 武官語る 大統領官邸も占拠(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 1面)

 カンボジア政府の陥落を伝える記事です.同日プノンペン放送が突然途絶えたことなども伝えています.

全土の99%掌中カンボジア解放勢力 米軍侵略に耐えて 旧敵のシ殿下とも結束(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 2面)

クメール・ルージュシハヌーク殿下がどのような経緯で力を合わせ,その結果解放を成し遂げたかをまとめた記事です.

腹ペコ,脱走兵・難民の群れ 気力なくし合流 首都流入憲兵,必死で阻む(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 11面)

 

東南ア民族自決進む プノンペン政権の降伏 ”脱米国”の時代に「北」中ソの影響強まる 「旧指導者は去れ 公務員は手伝え」入城の副首相らが放送(『朝日新聞』1975.04.18 朝刊 1面)