カンボジア ポル・ポトについての当時の報道について1975年4月前半

カンボジアでの旅行を終えて,当時の日本はポル・ポト政権についてどのような報道をしていたのかが気になり調べてみました.

ポル・ポト率いるクメール・ルージュカンボジアの首都プノンペンへ入城した日が1975年4月17日なので,その前後の記事を調べることにしました.今回調べたのは1975年4月の朝日新聞です.

このころの紙面は多くがベトナム戦争に割かれています.そして,その巻き添えを食らっているカンボジアの国内の混乱についての記事も散見することができます.

見落としているものもあると思うのでコメントを頂けると嬉しいです.

 

1975/04/05

当時のカンボジアは政府と解放勢力の内戦が続いていました.朝日新聞ではこの日にプノンペン日本大使館への電話取材の記事を掲載しています.5日には隣のタイへの一時避難が決まっていました.

脱出直前のプノンペン栗野大使に聞く 敗残兵…あれる民心 生鮮品不足 頻発する強盗(『朝日新聞』1975.04.05 朝刊 7面)

記事では当時のプノンペンの市民の混乱した様子が語られています.また,記事からはロン・ノル政権の衰退,解放勢力の勢いの強さが読み取れます.

和平へ交渉を強調 カンボジアのロン・ボレ首相と会見 最終判断は国民に(『朝日新聞』1975.04.08 朝刊 7面)

当時のカンボジアのロン・ボレ首相がタイのバンコクで受けた会見についてまとめた記事です.この記事内で,解放勢力との和平を模索していること,タイに和平交渉の介入を求めていることなどが記載されています.

インドネシアとタイで解放勢力と接触 帰国のカンボジア首相明かす(『朝日新聞』1975.04.09 朝刊 7面)

 海外旅行中だったカンボジアのロン・ボレ首相がカンボジアに帰国したという記事です.この旅行中に解放勢力と接触していたことを明らかにしました.

プノンペン動き急 解放勢力が空港へ3キロ 政府側は緊急閣議(『朝日新聞』1975.04.11 朝刊 1面)

 解放勢力がプノンペンのポチェントン空港近くまで迫っていることを伝える記事です.解放勢力の射程圏内に空港が入ってしまい事実上空港の使用ができなくなっていることがわかります.

米,引き揚げ開始 プノンペン 海兵隊のヘリが出動 大使館閉鎖数百人,タイへ(『朝日新聞』1975.04.12 朝刊 1面)

アメリカが大使館員などを引き上げたことを伝える記事です.

これは米国がカンボジアを見捨てたことを意味している.

とのこと.同日カンボジアのコイ大統領代行などが脱出したことを伝える記事も掲載されています.

意外に早い?終戦処理 民族政府,復権へ 少ない敵味方のしこり カンボジア(『朝日新聞』1975.04.13 朝刊 7面)

「赤いクメール」に全権 シ殿下,北京で特別声明(『朝日新聞』1975.04.13 朝刊 7面)

解放軍が新政権を取ったのちにどのような混乱が起きるかを予測した記事です.当時の予測では,戦後処理での混乱はさほど大きくないのではとのこと.その後の歴史を知っている我々からするとかなり楽観的な記事となっています.シ殿下とは北京へ亡命していたシハヌーク殿下のことを表しています.

首都の商業を握る華僑たちはもともと極めて慎重な人たちである.(中略)中層以下の華僑は当面じっと息をひそめて解放勢力の出方をうかがうのではあるまいか.(中略)解放勢力としても,華僑の力を借りない限り今後の経済の正常な運営は不可能であろう.こうしてみると,解放勢力のプノンペン入城は意外に混乱が少なくてすむかもしれない.

 

ロン・ノル政権は確かに同大統領の「独裁政権」であったが,南ベトナムや韓国に比べると独裁の程度は非常にゆるかった.(中略)ロン・ノル政権は,腐敗はしていたにしても陰険な暗さがなかっただけに,解放勢力が入城しても敵味方の「恨み」による報復は意外に少なく終わるのではないかと思われる.

収拾へ軍が全権 カンボジア 政権立て直し図る 最高委議長にサカン氏(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

シハヌーク政権承認(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

当時のプノンペン市内の様子は"嵐の前の静けさ"と表現されています.アメリカの撤退により補給を絶たれたカンボジア政府軍と解放勢力との戦闘は停止していました.

カンボジア政府は十三日,米大使撤収後の混乱からの政権立て直しに取り掛かった.(中略)十二日成立した暫定最高委員会の議長にサカン参謀総長,副議長にロン・ボレ首相が就任,全権を握って国政の空白状態の収拾に着手した.だが,最高委員会は,解放勢力が「裏切り者」と決めつけたボレ首相や軍部の実力者をメンバーにしており,事態収拾の具体的方針は,はっきりしていない.一方シハヌーク殿下は,キュー・サムファン副首相兼国防相ら国内の解放勢力がプノンペン解放の主役であることを明らかにした.

当時のカンボジアには3つの大きな勢力がありました.1つ目の勢力はアメリカからの支援を受けていたロン・ノル政権です.記事に出てきている政府軍やロン・ボレ首相などもこの政権内の人々です.2つ目の勢力はロン・ノル政権にクーデターを起こされ,北京に亡命中のシハヌーク殿下率いる勢力です.先の記事ではフランス政府がシハヌーク政権を承認したことを伝えています.そして3番目の勢力がクメール・ルージュです.この2つ目の勢力であるシハヌーク殿下とクメールルージュが組んだのが解放勢力になります.

大国エゴむき出し 踏み台にされた民衆 米のカンボジア放棄(『朝日新聞』1975.04.14 朝刊 4面)

この記事ではカンボジアに混乱をもたらしたアメリカ政府への強い非難が掲載されています. 

米国は,在プノンペン大使館を閉鎖したことにより事実上カンボジアを見放した.「介入」から「放棄」まで,この五年間の「米国とカンボジア」関係ぐらい,大国のエゴと小国の悲惨さがむき出しになった例は,戦後史でもめずらしい.(中略)

七〇年五月,米,南ベトナム両軍は,カンボジア領内にある北ベトナム軍の”聖域”への侵略を開始した.「平和のための防衛行動」という旗印を掲げたこの作戦は,「目的のためにはあらゆる手段が正当化される」という”ニクソン哲学”の表れー言い換えると「ウォーターゲートの外交版」でもあった.「ベトナムにおける勝利」のため「カンボジアの平和」が踏み台にされたのである.(中略)

カンボジア人が求めて立ち上がった戦争でないことは,米軍部でさえ等しく認めるところで,ハーバード大ジェームズ・トムソン教授(国際関係論)などは「歴史にとどめるべきニクソンの犯した大罪のうち,最もひどいものは,クメール文化をでたらめに破壊したことである」と非難している.

記事全体は,今までひどかったアメリカの傀儡政権が崩れ落ち,これからはカンボジア人が求める新たな政府が誕生するんだというような雰囲気が読み取れます.

プノンペン進入カンボジア解放勢力の部隊(『朝日新聞』1975.04.14 夕刊 1面)

 解放勢力がプノンペン市内の西部地区に侵入したことを伝える記事です.記事には記者の状況が記載されており,緊迫感が伝わってきます.この記者が無事であったことを祈っています.

(この報道は本社プノンペン支局のトン・ジン記者=カンボジア人通信員=が伝えてきたもので,同記者は「この結果,これが私の最後の通信になろう.私は他の米国報道機関で働いている人たちのように撤退する手段がない」と付記している.)

プノンペン市内パニック状態 首都防衛線突破か 解放勢力空港一帯で猛攻(『朝日新聞』1975.04.15 朝刊 1面)

解放勢力がプノンペンへの前進をしており,各地で政府軍との戦闘が起こっていることを伝えています.この日はカンボジア正月であるが,プノンペン市民は外出を禁止されており,市内には人影がありませんでした.

カンボジア最高委議長中立の保証要請ASEAN加盟各国に(『朝日新聞』1975.04.15 朝刊 7面)

カンボジアの最高委議長がASEAN諸国にカンボジアの中立・独立・領土保全に対して保証を与えてほしいと要請したことを伝える記事です.また,タイには多くのカンボジアの難民が押し寄せていましたが,難民の長期滞在は認めないという記事も掲載されています.

解放勢力,激しい攻勢プノンペン拠点つぎつぎ攻略政府軍の支援機飛べず(『朝日新聞』1975.04.16 朝刊 7面)

解放勢力がプノンペン市内への進行を続けていることを伝えています.

解放勢力を迎えうつべき政府軍の士気は低く,国営放送を通じて政府軍に協力するよう呼びかけられている市民の関心もないに等しい状況である.

プノンペン政府関係者は,解放勢力がさしたる抵抗を受けぬまま進出していることに大いに驚いている.解放勢力は,政府軍側が発砲すると「なぜおたがいに殺し合うのか.われわれは同じカンボジア人じゃないか」と叫んで,政府軍側をけん制しているという.

また,14日以降プノンペンからの空路が完全に断たれてしまったことも伝えています.

プノンペンバンコクを繋いでいた唯一の民間航空線カンボジア航空は,一四日についで一五日もキャンセルとなり,プノンペンは空路による外部との接触を全く失った.同航空は一三日まで一日一,二便の割でプノンペンバンコクを往復し,カンボジア難民客を運んでいたが,十四日は機体の故障を理由に飛行を停止し,十五日はプノンペン郊外にあるポチェントン空港周辺の軍事情勢が極度に悪化したため停止したという.

微妙に揺れるシ殿下の胸中 元首へ意欲ー一転,引退説(『朝日新聞』1975.04.16 朝刊 7面)

シハヌーク殿下は十五日,一部の報道がカンボジア解放勢力の中で同殿下支持者とクメール・ルージュの対立があると伝えたことについて,「クメール・ルージュの指導者たち自身,私がカンボジア国家元首と統一戦線議長の地位にとどまることを認めている」との声明を発表”対立説”を否定した.

当時は解放勢力が国を治めることになった際にはシハヌーク殿下が国家元首になるということだったことが読み取れます.同日にはオーストラリアがカンボジア王国民族連合政府がプノンペンに移りしだい直ちに承認すると伝えた記事もあります.

プノンペン市内突入カンボジアの解放勢力(『朝日新聞』1975.04.16 夕刊 1面)

解放勢力がプノンペン市内の中心にあと4キロまで接近したことを伝える記事です.

 

1975/04/17

この日はポル・ポト率いる解放勢力のクメールルージュがプノンペンへ入城した日です.この日から都市部から農村への強制移動が始まりました.この日の朝日新聞朝刊の一面には次の記事が掲載されています.

プノンペン暫定最高委事実上の降伏提案「武装解き政権委譲」解放勢力今日にも無血入城(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 1面)

カンボジアの新政権 樹立後すぐ承認へ 政府方針(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 2面)

 日本政府がカンボジアの新政権が樹立されたらすぐに承認する意向を固めたことを伝える記事です.

放棄続く政府軍 プノンペン(『朝日新聞』1975.04.17 朝刊 7面)

政府軍の兵士たちがほとんど抵抗することなく解放勢力に投降していったことを伝えています.また,スウェーデンカンボジア王国民主連合政府を承認することを決定したことを伝える記事も見られました.

プノンペン,陥落 5年の内戦終結へ 政府すでに降伏 武官語る 大統領官邸も占拠(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 1面)

 カンボジア政府の陥落を伝える記事です.同日プノンペン放送が突然途絶えたことなども伝えています.

全土の99%掌中カンボジア解放勢力 米軍侵略に耐えて 旧敵のシ殿下とも結束(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 2面)

クメール・ルージュシハヌーク殿下がどのような経緯で力を合わせ,その結果解放を成し遂げたかをまとめた記事です.

腹ペコ,脱走兵・難民の群れ 気力なくし合流 首都流入憲兵,必死で阻む(『朝日新聞』1975.04.17 夕刊 11面)

 

東南ア民族自決進む プノンペン政権の降伏 ”脱米国”の時代に「北」中ソの影響強まる 「旧指導者は去れ 公務員は手伝え」入城の副首相らが放送(『朝日新聞』1975.04.18 朝刊 1面)